袁紹に仕える。節操が固い人物であったことから袁紹に信頼され、治中や別駕に任命され、同時に幕府を総理した。 建安4年(199年)に、対曹操の戦略方針をめぐって、郭図と共に短期決戦戦略を主張し、持久戦略を主張する沮授・田豊と対立した。この論争で、袁紹は審配らを支持している。しかし、この戦略に沿って起きた建安5年(200年)の官渡の戦いは、袁紹の敗北に終わり、審配も2人の子を曹操に捕らえられた。なお、この戦いの前には、法律違反を理由として許攸の家族を収監している。これが原因で許攸は、官渡の戦いの際に曹操の下へ出奔し、袁紹を敗北に導いた。 その後、普段から審配と仲が悪かった孟岱と蒋奇が審配を讒言し、郭図と辛評もこれに同調したため、孟岱が監軍に任命され、審配に代わって?を守備した。この時、普段は仲が悪かった同僚の逢紀が審配を懸命に弁護したため、審配は窮地を逃れ、逢紀とは親友になる(しかし、審配の文書等から判断すると、この両者は後に再び仲違いしている)。 袁氏内紛と最期 建安7年(202年)に袁紹が病没すると、袁紹が寵愛した三男・袁尚を逢紀と共に擁立し、袁尚の兄である袁譚を擁立する郭図・辛評らと対立した。袁紹は、死去の際に後継者を指定しておらず、しかも『後漢書』袁紹伝によれば、衆目は年長の袁譚を支持していた。それにもかかわらず、同列伝によると、審配らは袁紹の遺命を偽造してまで、袁尚の後継を強行したとされる。袁氏内紛における審配・逢紀ら袁尚派の責任は大きいと言わざるを得ないであろう。 建安9年(204年)2月、袁尚の命令により、審配は蘇由と共に?を守備するが、蘇由は戦わずして曹操に降伏してしまう。まもなく曹操軍が大挙して攻め込んできたが、審配は数か月に渡り善く防戦した。しかし、その間にも?周辺の袁尚軍は確実に曹操軍に掃討されていき、審配軍は次第に孤立状態に追い込まれる。ついに同年8月、甥の審栄が裏切って城門を開いてしまったため、審配は捕らえられた。 曹操は審配の能力を見込んで部下に迎えようとしたが、審配は最後まで袁尚への忠義を貫いて拒絶する。また、篭城の間に兄・辛評の一家を審配に殺害された辛?の強い要求もあって、曹操は審配を無垢フローリング することにした。審配は主君・袁尚のいる北を向いて斬首されている。 後世の評価 忠烈無双の人物と言っても良い審配だが、その一方で、権勢を振りかざす有り様も伝えられている。 例えば、『三国志』魏書武帝紀注引『セミナー 』の曹操が出した令によると、審配の親族は法に背いた罪人を匿い、亡命者の首領になったとされる。また、『三国志』魏書王修伝によると、?落城後に審配やその他の将官の財貨を接収してみたところ、万単位(件数を指すと思われる)を記録したという。 曹操の参謀荀ケは、「審配は独り善がりで無策である」と厳しく批評した。結局、その監視カメラ 通りの行動で、審配は不必要に同僚と対立してしまい、また、主家を分裂させ、滅亡に追い込むことになったと言えよう。 なお、審配がこのように権勢を保持できたのは、審家が冀州の有力豪族だったことが挙げられる。この時代、こうした有力豪族の超法規的行為は多く、一例として益州の法正は私怨で人を殺したりもしたが、益州人士の反発を恐れた諸葛亮は処罰できなかったという。 物語中における審配 『三国演義』でも、審配は、最後まで粗大ゴミ に殉じた忠義の士として描写されている。官渡の戦いの前哨戦で、関羽に文醜が討ち取られると、劉備を処刑するよう郭図と共に袁紹に進言するが、劉備は巧言で危機を逃れる。 その後の官渡の戦い、袁氏内紛の展開は、ほぼ史実と同様である。ただ、?城が落城した際には、徐晃によって捕らえられたことになっている。 辛評(しん ぴょう、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将または政治家。字は仲治。豫州頴川郡陽?県の人。魏に仕えた辛?の兄。 袁譚配下の幕僚 袁紹配下。袁紹が韓馥から脱毛 を譲られた、初平2年(191年)前後に仕官したと思われる。なお、曹操配下の郭嘉は同県の出身、同僚の郭図や荀ェ、曹操配下の荀ケらとは同郡の出身である。 辛評が袁紹陣営で台頭してくるのは、建安5年(200年)の官渡の戦いで袁紹が敗れてからである。戦後に審配が孟岱・蒋奇の讒言を受けると、辛評は郭図と共に孟岱らを支持し、一時は審配を失脚に追い込む。しかし、審配は逢紀の弁護を受けて、辛うじて復権した。 建安7年(202年)夏、袁紹が後継者を指名しないまま死去すると、辛評と郭図は長男の袁譚を後継者にしようとする。しかし、辛評と郭図が権力を握るのを恐れた審配と逢紀は、袁紹の生前の寵愛を根拠に三男の袁尚を包茎 に承継させた(『後漢書』袁紹列伝によると、袁紹の遺命を偽造したという)。ここに、袁氏内紛が勃発するのである。 建安8年(203年)、辛評は郭図と共に、審配への個人的敵愾心を動機として、袁譚に袁尚への先制攻撃をそそのかし、これを実施させた。だが結果は、袁尚の反撃に敗北し、袁譚は平原に追い込まれる。なお、袁譚配下の王脩は、侫臣を斬って袁尚と和解するよう説くが、この「トラック買取 」とは辛評、郭図を指すのであろう。 辛評の家族 この後、辛評本人の姿は史書では見られなくなり、その家族の動向が綴られていく。平原に追い詰められた袁譚は、郭図の進言もあって曹操への一時降伏を得策だと考え、郭図の推薦により辛評の弟辛?を使者として曹操の陣へ送り込んだ。結果、和睦は認められたが、辛?はそのまま曹操の家臣として留め置かれた。 建安9年(204年)2月、袁尚派の審配が?を守備するようになる。審配は、郭図と辛兄弟への恨みを募らせていたため、城内に残されていた3人の家族を捕えようとした。この時、郭図と辛?の家族は脱出したが、辛評の家族は収監されてしまった。辛評の家族は、審配が曹操軍との篭城戦を戦う最中に、ことごとく処刑されてしまう。審配が最後に敗北して曹操軍に捕えられると、辛?は審配の処刑を強く望み、これが容れられた。 建安10年(205年)1月、袁譚と郭図は、南皮で曹操に攻め滅ぼされた。しかし、この時まで辛評が付き従っていたか、袁譚らと命運を共にしたか、それ以前に南皮の戦いが開始された時点での生死すら、史書からは窺い得ない。 物語中の辛評 『三国演義』での辛評は、当初は韓馥の幕僚とされているが、史実では韓馥の部下になったことはない。建安4年の、対曹操戦略の論争では、荀ェと共に短期決戦戦略を支持して持久戦略を退け、袁紹の決断を促した。 袁氏内紛において辛評は、史実通りに袁譚を支持した。ただ『演義』では、南皮の戦いまで辛評は袁譚に随従している。戦況が絶望的となると、辛評は、袁譚の命で曹操の下に降伏の使者として赴く。しかし曹操はこれを拒絶し、その一方で、辛評には辛?同様に自分の家臣になるよう勧誘した。辛評は袁譚への忠義を選んで拒絶したが、南皮城内に戻ったところ、交渉結果に失望した袁譚から曹操との内通を疑われてしまう。これにショックを受けた辛評は、その場で昏倒し、絶命した。三国演義 (TVシリーズ)では、この墳死の間際に審配に遺言し、弟が冀州を攻撃すれば、わが一族を皆殺しにしてくれと頼んだことになっている。審配からそれを突き付けられた辛?は、絶叫して倒れている。