若くして大志を有し、権謀術策に優れたという。当初は冀州牧韓馥に別駕・騎都尉として仕え、韓馥が袁紹に冀州を譲ろうとすると、他の幕僚と共に諫止したが聞き入れられなかった。結局、袁紹が冀州を支配すると、沮授はそのまま袁紹にも仕える。沮授は、冀・青・幽・并の4州を平定した上で、長安に皇帝を迎え、洛陽の宗廟を復興する戦略を袁紹に説き、その賞賛を受けて監軍(袁紹軍の総司令官的地位)・奮威将軍に任命された。この戦略の下に、袁紹は建安4年(199年)までには4州を平定することに成功しており、監軍として沮授の貢献は大きかった。 興平2年(195年)、沮授は袁紹に献帝を迎え入れることを進言したが、郭図や淳于瓊がこれに反対した。袁紹も、董卓が擁立した献帝を迎え入れることに積極的でなかったため、沮授の進言は容れられなかった(『三国志』魏書袁紹伝の注に引く『献帝伝』、『後漢書』袁紹伝)[1]。 建安4年、袁紹が4州を平定した後、対曹操の外国為替 について論争が起きた。沮授と田豊は持久戦略を主張したが、郭図と審配は短期決戦戦略を主張した。袁紹は、最終的に郭図と審配を支持した。またこの時、郭図が、沮授の勢威は強大であると讒言し、これにより監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。このほか、沮授は、袁紹が長男・袁譚を青州刺史に任命しようとすると、これを禍の始まりであるとして諫止したが、袁紹は聞き入れなかった。 官渡の戦い 建安5年(200年)、官渡の戦いが始まる直前に、沮授は袁紹の敗北を予想し、弟の沮宗をはじめ一族に資財を分け与えた。戦いが始まると、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良に命じ、白馬に駐屯する東郡太守劉延を攻撃させた。沮授は、顔良は勇猛であるが、偏狭であるため単独での任務には耐えられないと袁紹に進言したが、容れられなかった。その言葉通り、顔良は白馬で判断を誤って敵中に孤立してしまい、あっけなく曹操軍の関羽に討ち取られてしまう。また、袁紹が黄河を渡り、延津に向かおうとすると、沮授は病気を理由に軍指揮の辞退を申し出たため、袁紹は憤然とし、沮授配下の軍を郭図に従属させた。 曹操軍が官渡に向かうと、沮授は曹操軍の糧食不足を指摘し、持久戦術を進言したが、袁紹は容れなかった。袁紹軍も官渡に向かって曹操軍と交戦し、当初は袁紹軍有利であったが、袁紹もまた曹操軍の攻撃で兵糧補給に難を生じ始めた。そこで、袁紹は淳于瓊に命じて輸送された食糧を守備させようとした。このとき沮授は、淳于瓊に加えて蒋奇に別働隊を率いさせ、守備に万全を期すべきことを袁紹に進言したが、容れられなかった。この結果、淳于瓊は烏巣で曹操に撃破され、これがきっかけで袁紹軍は総崩れとなり、大敗した。沮授は黄河を渡河するのに遅れて、外為 に生け捕りにされてしまう。 沮授は曹操とも旧知の仲であったため、曹操は配下に迎えようとしたが沮授はこれを拒否する。曹操は沮授の能力を惜しんで処刑しようとはしなかったが、沮授が曹操のもとから脱走しようとしたため、やむなく処刑された。なお、彼には後に袁尚の武将となった沮鵠という息子がいたが、邯鄲の戦いで曹操軍に敗れている。 後世の評価 『三国志』魏書袁紹伝の注によれば、歴史家のFX は、「田豊・沮授の謀は、古の張良・陳平に匹敵するものである」と讃えている。事実、4州平定までは順調だった袁紹が、建安4年以降に沮授の言を特に無視するようになってから、その転落が始まっている。官渡の戦いでも沮授の言を受け入れていれば、勝敗は逆転していた可能性が高いと言わざるを得ない。 一般的なイメージでは、FX 取引 は文弱の参謀とされているようだが、実際には、監軍や都督を務めていることからも明らかなように、非常に卓抜した戦略眼を有する軍司令官であったと言うべきであろう。 なお、沮授は袁家の後継争いのときにはすでに死亡していたが、上記の通り、生前に、袁譚の青州刺史への赴任は「災いの始まりです」、と袁紹を諌めている。おそらく、袁紹の長子である袁譚を本拠地から遠い青州へ派遣することは、どのような形であれ後継者争いを触発することになると見抜いての進言であったと思われる。しかし、その子の沮鵠は、父の死後、袁尚派に与することになった。 物語中の沮授 『三国演義』における沮授は、当初は韓馥の部下だったことについて触れられていない。ほぼ史実と同様の生涯を送っており、悲劇の参謀として散っていった様が描かれている。ただ、曹操との戦いでは、持久戦略が袁紹に受け入れられなかったことに不満を抱き、他の諸将と連携しようとしない場面もあった。 官渡の戦いでは、持久戦術を説いたものの、受け入れられずに拘禁され、不吉の星の出現についてもFX に知らせるが、無視された。袁紹が敗れると、沮授が曹操の降伏勧告を蹴って死を選んだのは、史実の通りである。曹操は『忠烈沮君之墓』と記した墓を黄河の渡し場に立てて、その死を悼んだ。 蘇飛(そひ、生没年不詳)は、中国、後漢末の武将。黄祖の部将。 黄祖のもとで都督を務めた有力人物。外為 の甘寧の才能を高く買っており、一番の理解者であった。 主君である黄祖が海賊あがりの甘寧を重用しないので、彼を重用するように進言したが、聞き入れられなかった。そこで蘇飛は、甘寧を?(ちゅ)の県長に推挙し、彼が呉の孫権のもとへ脱出できるよう手配した。そのおかげで甘寧は黄祖の手から逃れ、孫権に仕えることができたのである。 208年、孫権が江夏を攻めてFX を討ったとき、蘇飛は生け捕りにされた。孫権は蘇飛を処刑しようとしたが、甘寧が自身の生命を盾に助命を嘆願したため、蘇飛は許された。 董卓討伐戦に孫堅が参加したとき、これに従軍した。孫堅が董卓軍に大敗して逃走した際に彼の赤い頭巾を被って囮となった。董卓軍の騎兵は祖茂を追いかけたので、孫堅は助かった。祖茂は逃げ場を失ったので馬から飛びおり、頭巾を焼けぼっくいに被せて草むらに身を伏せた。董卓の騎兵は遠巻きに取り囲んだが、近付いて初めて焼けぼっくいであると知り、立ち去った(『三国志』孫堅伝)。 『三国志演義』では、呉郡富春の人で字は大栄、二刀流の使い手とする。孫堅を追撃したのは董卓配下の勇将・華雄で、華雄が焼けぼっくいから頭巾を取り上げたとき、祖茂は木陰から飛びだして華雄に襲いかかったが、返り討ちにあって一太刀で殺された。 常山に割拠していた黒山軍(黒山賊)指導者の張燕配下。 張燕が常山・趙郡・中山・上党・河内の諸山谷の独立勢力と連携した際に、その中の一勢力の指導者だった孫軽は、王当と共に張燕配下となり、黒山軍の結成に加わった。以後、黒山軍は河北で一大勢力を形成するようになる。その後、張燕は公孫?と連合し、配下の将軍である杜長を派遣するなどして袁紹に対抗するが、敗北して黒山軍は追い詰められるようになる。建安9年(204年)、曹操軍の部将張遼が趙国と常山を攻略すると、孫軽にも招請を行い、孫軽は他の黒山軍や独立勢力と共に張遼に降伏した。これ以降、孫軽は史書には登場しない。 なお孫軽は、張燕配下の黒山軍の中では、名前が史書に残されている数少ない人物の1人であり、王当、杜長と共に、張燕の有力な腹心だったことが窺える(黒山軍の有力部将としては、他に?固・于毒がいるが、彼らは張燕の指揮下にあったとは言い難い)。 孫軽は、『三国演義』には登場しない。 孫観(そん かん、? - 217年?)は、中国の後漢時代末期の武将、曹操配下。字は仲台。?州泰山郡の人。兄は孫康。『三国志』魏書臧覇伝の注に引く『魏略』によれば、「嬰子」という別名も有していたという。 孫観に関する記述は、『三国志』魏書臧覇伝の注に引く『魏書』に最も詳しい。 臧覇と共に挙兵し、陶謙に従って黄巾賊を討伐したことで、騎都尉に任命された。その後、呉敦、尹礼と共に臧覇を指導者と仰ぎ、開陽に駐屯した。建安3年(198年)、曹操が呂布を滅ぼすと、先に曹操に降っていた臧覇の招請を受け、孫観も兄の孫康らと共に曹操配下となる。臧覇が琅邪国相に任命されると、孫観も北海太守、孫康も城陽太守にそれぞれ任命されるという厚遇を受けた。 孫観は臧覇と共に徐州・青州の賊の討伐に従事し、常に先陣を切って戦うことで臧覇に次ぐ功績を挙げ、呂都亭侯に任命された。建安10年(205年)春、曹操が南皮の袁譚を攻略した際には、臧覇と共に自身の子弟を人質として?に住まわせたことで、偏将軍に任命され、青州刺史に異動する。建安22年(217年)2月に、濡須口の孫権を討伐した際には、仮節を授けられる。孫権との戦いの最中に流れ矢で左足を負傷したが、力戦奮闘して、曹操の賞賛と慰労を受けた。この軍功により振威将軍に任命されたが、矢傷は重く、まもなく死去した。 物語中の孫観 『三国演義』では、なぜか当初は臧覇の部下ではなく、しかも呉敦、尹礼、昌?と共に泰山の山賊として扱われている。建安3年(198年)の曹操と呂布の最終決戦に際して、呂布と同盟を結び、蕭関を守備したが、曹操軍に敗れる。呂布滅亡後、臧覇の説得を受けて曹操に降伏したが、その後は作中での登場は無い。