張衛(ちょう えい、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。豫州沛国豊県の人。五斗米道の指導者で、漢中を支配していた張魯の弟。甥は張富(張魯の子)。 建安20年(215年)、曹操が漢中へ進攻してくると、張魯は降伏しようとしたが、張衛は承知せず、将軍の楊昂・楊任と数万の兵を率いて陽平関を守備した。一時は曹操軍を撃退したが、曹操は部将の高祚ら率いる別働隊を派遣して夜襲させたために、楊任が戦死し、張衛は敗走した。 それでも張衛は抵抗を続けたが、野生の鹿数千頭が張衛の陣営を叩き壊す事故(曹操軍の計略によるものかどうかは不明)が発生する。さらに、偶然発生した高祚との夜間の遭遇戦では、高祚が味方を呼ぶために打ち鳴らした軍鼓の音を、張衛は奇襲の合図と勘違いしてしまう。これらの事件により、ついに張衛は戦意を喪失して降伏した。以後、張衛は史書に現れない。 揚州刺史劉?の部将。 張英は長江の当利口に駐屯し、同じく横江津に駐屯する同僚の樊能・于糜と連動して、勢力拡張を企む袁術に備えていた。袁術は、揚州刺史恵衢、丹楊太守呉景、丹楊都尉孫賁らを派遣して劉?を攻撃させたが、張英ら劉?の部将たちの防御は厚く、数年経っても撃破出来なかった。 しかし興平1年(194年)、呉景らを孫策が救援すると、戦況は一変する。孫策は、呉景らが数年かかっても攻略できなかった張英らを瞬く間に撃破し、劉?を丹徒へ追い落とした。これ以後、張英はくりっく365 から姿を消す。 張燕 (ちょうえん、153年?−?)は、中国、後漢末期の武将。もとの名は?燕。字は不明。子に張方がいる。 常山郡真定県の人。黒山賊という10万の山賊や罪人などを率いた首領。黄巾の乱が起こったとき、張牛角と共に盗賊団を結成して各地で暴れ回った。張牛角の死後はその後を継いで頭目となり、張姓に改めた。後漢政府は黒山賊を鎮圧できなかった。張燕は自ら帰順することで、平難中郎将に任命され、孝廉を推挙する資格が与えられた。事実上の支配権容認だった。 董卓が後漢の実権を握ると、反董卓連合軍に参加した。FX を根拠地としたため、袁紹から執拗に攻撃を受けた。呂布が袁紹のもとを頼っていたとき、張燕は呂布と戦ったが敗れている。その後、公孫?と手を結んで袁紹と争ったが、次第に劣勢に追い込まれた。官渡の戦い直後、袁紹が死んで袁氏が没落すると、曹操に降伏した。このとき、平北将軍の位を与えられている。 軍を率いては常に敏捷な動きを見せたため、飛燕と仇名された。 曾孫の張林は、西晋に仕え、趙王司馬倫の簒奪に荷担した。しかし、間もなく内輪もめで誅殺された。 物語中の張英 『三国演義』でも張英は劉?のとして資産運用 として登場する。牛渚の要塞の守備を志願して、進攻してくる孫策に当たったが、草莽の将だった蒋欽・周泰に陣中から火をかけられ、あっけなく敗走した。劉?の下に戻ると処刑されそうになったが、同僚の?融・薛礼の弁護で助命される。 その後、孫策に大敗して劉?が劉表の下へ逃れると、張英は、薛礼・陳横と共に秣陵(後の呉の都、建業)に立て篭もる。しかし、攻め寄せてきた孫策の計略によって誘き出されてしまい、伏兵に遭って敗れ、孫策の部将陳武に討たれた。 横山光輝の漫画『三国志』でも登場。やはり最後まで孫策と戦った末に、孫策との一騎打ちで斃れた。 曹操の猶祖父・曹騰に推薦され、尚書郎〜司空・太尉に任じられた。185年に外国為替証拠金取引 で韓遂・辺章の反乱があった際、車騎将軍に任命されて孫堅・陶謙らを参謀に迎え、破虜将軍・董卓と共に軍勢を率いて鎮圧に向かった。出立に先立って霊帝が閲兵したが、その際、張温は軍礼に従って拝礼しなかった。古典的な軍礼では一度将軍となったならば皇帝に対して拝命(という儀礼を)する必要はないとされていたが、漢代では実際に「不拝」という行為は稀だったという。このように張温には勇ましい一面があった。 一方で、同格の董卓の「直接反乱を鎮圧せずとも宦官を斬ってしまえば、反乱は治まるだろう!」という凄まじい進言に対して、張温は慄き震えて返答できず、婉曲に断ったという。また、実際に張温が反乱軍の鎮定に当たっている最中に董卓が軍令を犯した際、義憤に燃えた孫堅から「朝廷に直訴して董卓を処刑すべきである!」との進言を受けるも、実力者の董卓を恐れるがために拒否した。このように張温は極度に臆病な性格をも有していたという。それ以来董卓は張温と孫堅を憎み、いつか誅滅してやると誓ったという。 多くの功績を立てたが、勢力を持つ宦官と関係を持ち、そのために誹謗されることになった。なお、三公は本来は都にあって政務を執り行なうが、後漢末以降に在外の太尉もでるようになったが、その始まりが張温であった。後に衛尉に転任した。 191年冬10月に、涼州遠征以来の犬猿の仲だったFX によって惨殺された。太史(太史令?)が「大臣のうち刑死する者がありましょう」と占い、さらに天変地異が起こった。そのため、董卓は元々仲が悪かった張温を、親交があった袁術と内通していると人を使って誣告させ、笞で打ち殺させた。彼を憎悪した董卓は張温の首を刎ねて、酒宴でその首級を披露したという。 『三国志演義』では、孫堅が劉表との戦で戦死した事を喜んだ董卓は酒宴を開き、そこに出席していた張温を呂布に命じて打ち首にし、直後に皿に載せた首級を酒宴の場で披露している。出席者は一様に恐怖のFX を挙げ、持っていた箸や杯を取り落とし、食べていたものを嘔吐したが、董卓だけは笑いながら酒を飲み、食事を続けたとなっており、董卓の残虐性を強調する印象的な場面としている。 また、王允とは古くからの友人同士という事になっており、張温の無残な最期を目の当たりにした王允は、「美女連環の計」を用いて董卓を暗殺する事を決意している。 張(ちょう ぎ、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。「くりっく365 」と読まれる場合もあるが、これは形声文字の声符から音を憶測しただけの誤読である。 袁紹の三男袁尚の配下の将。「大将」と表記される同僚の馬延よりも格下の将、あるいは馬延の副将であろうか。張の名は『三国志』魏書武帝紀のみにしか見えないのに対し、馬延の名は他にも『三国志』魏書袁紹伝、『後漢書』袁紹伝に見える。 建安9年(204年)、?を守備する袁尚の参謀審配を救援するため、袁尚に従って曹操と戦ったが、敗北を積み重ねた。袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられず、遂には、張は馬延と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。この後、張は史書に登場しない。 物語中の張 『三国志演義』では、この後も曹操配下として登場し、馬延と同格扱いにされている。当陽の戦いで他の袁紹の降将と共に、阿斗を抱える劉備の将・趙雲を包囲したが、突破された。赤壁の戦いでは、馬延と共に敗走する曹操を護衛したが、追撃してきた呉将甘寧に馬延共々討ち取られる。 張虎(ちょうこ、生没年不明)は、後漢末期の人物。三国志魏書劉表伝の注に登場する。 江夏出身の賊の一人で、陳生と共に襄陽を攻撃していたが、中央から赴任されてきた荊州刺史劉表が豪族の支持を受け支配を固めると、これに降伏した。説得にあたったのは?越である。 三国志演義では荊州で劉表と孫堅が争った際、劉表配下の黄祖に従って陳生と共に登場する。しかし、孫堅配下の韓当と三十余合の激闘を繰り広げるが、倒される。 三国時代の人物 張虎(ちょうこ、?−?)は、三国時代の魏の武将。張遼の子。父の功績をたたえられ関内侯に封じられた。後に偏将軍にまで昇進。没後は子の張統が爵位を継いだ。 三国志演義では楽進の子・楽?とペアで描かれ、蜀の北伐で常に蜀軍に敗れ、更には蜀軍に捕らえられた時には裸にされて陣に戻されるなど、孔明に翻弄される凡将の一人として描かれている。のち、司馬懿の指揮下の将軍として公孫淵討伐でも活躍した。