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キャピタルロス

桓帝時代、宦官の単超たちが梁冀誅殺の功績で列侯に封ぜられると、それに伴い趙忠も都郷侯になった。霊帝時代になると張譲と共に中常侍になり列侯に封ぜられ、曹節が死ぬと大長秋となった。趙忠は霊帝の寵愛が深い事をいいことに他の宦官たちと組んで私腹を肥やした。 184年、黄巾の乱が起こる。郎中・張鈞は、乱の原因は十常侍たちが私腹を肥やしていることにあるとして、趙忠達を斬るべきだと弾劾するが、趙忠達が官を辞し獄に出頭し家財を売り払い軍費に充てると、霊帝は趙忠達を官に復帰させ逆に張鈞を逮捕してしまった。また、同じ宦官の呂強が霊帝に左右の貪濁なる者を誅すべきと上奏すると、趙忠は夏ツと共に呂強を中傷し自殺に追い込んだ。皇甫嵩に邸宅が規定に反して豪華なのを上奏され没収されたのを恨み、皇甫嵩が反乱の平定の任に就くと同じく皇甫嵩に恨みのあった張譲と共に霊帝に讒言した。 189年、霊帝が死ぬと趙忠は蹇碩に外戚の何進の誅殺を相談されるが、逆に趙忠たちはそのことを漏らし何進側について蹇碩を見捨てたが、何進が袁紹らと宦官誅滅を画策しているのを知ると、趙忠たちは何進を誘き出して殺してしまう。そのことを袁紹たちが知って宮中に突入すると、趙忠は他の宦官たちと共に殺された。 張超(ちょう ちょう、? - 195年)は、中国の後漢時代末期の武将、政治家。?州東平郡の人。実兄は陳留太守の張?。同時代に活躍した河間郡の人で書家の張超とは別人である。 後漢末の広陵太守で、臧洪や袁綏といった名士を登用した。初平1年(190年)1月に、兄の張?や他の諸侯と共に、董卓討伐の同盟(反董卓連合)に参加する。この時、諸侯同盟の宣誓者として、臧洪を推薦し、臧洪もその大役を果たした。 興平1年(194年)夏、対立する徐州の陶謙を討つため徐州遠征に赴いた曹操の留守を狙って、曹操の大将の陳宮、兄・張?らと謀議し、呂布を?州牧に推戴して謀反を起こした。一時は、呂布らにより?州のほとんどが制圧される勢いであった。 しかし翌興平2年(195年)春には、曹操が勢いを盛り返して、呂布側は劣勢に追い込まれる。同年8月、張超は、張?の命令で家族と共に雍丘に籠城し、曹操の猛攻撃にも懸命に防戦した。しかし同年12月、ついに雍丘は陥落して、張超は自殺し[1]、張?・張超の三族は皆殺しにされた。張?も、袁術に救援を求めにいく途中で部下に暗殺されている。 人物像 張超の人物像は、史料が断片的であるため、多くを窺い知ることはできない。しかし、兄の張?に対し、臧洪に広陵の政務のほとんどを委ねているのは、その才能と知略を重んじているためと答えている。他にも、董卓討伐時には袁綏に広陵の政務を任せるなど、惚れ込んだ実力のある部下には大いにその能力を発揮させようとする姿勢が、そこから窺えよう。 なお臧洪も、張超のために最後まで報恩を尽くし、張超を救援しなかった袁紹を恨んでこれに離反して、やはり攻め滅ぼされている。 張?(ちょう ばく ?音〔Zhang Miao〕 ? - 195年)は、東平郡寿張の人。後漢末期の陳留郡の太守。字は孟卓。張超の兄。後漢の八俊(八厨)の一人。 若い頃から先物取引 で気前がよく、曹操や袁紹とも親友のように仲が良かった。袁紹とは、「奔走の友」と呼ばれる契りを結び、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かったと言われている。頭脳の明晰さと徳行で官界に知られるようになり、後漢王朝に仕えて騎都尉を務めた後、陳留郡の太守となった。 袁紹を盟主として董卓を討つ連合軍が結成された時、張?は、曹操らとともに参戦した。この時、袁紹が、董卓を討つべく集まった諸侯に対して奢ったふるまいを見せた事があった。張?は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになる。また、後に李?に敗れて落ち延びてきた呂布と親交を結ぶのだが、それが原因で袁紹の不興を買ってしまう。以前に袁紹と呂布とは諍いを起こしており、投資信託 が張?の下に逗留していたのは、袁紹によって厄介払いされたものが転がり込んでいた為である。 いずれの時も、曹操が袁紹にとりなしたため、危うく難を逃れている。 しかし、張?は、こうして曹操に命を助けておいてもらいながらも、『いつか、曹操が袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか』と、曹操に疑念を抱くようになったとも記されている。 193年、曹操は徐州の陶謙を攻めるために本拠を留守にした。張?は、食客として遇していた呂布、陳宮の両名から、「今こそ曹操の領地を奪う好機」と唆され、また、曹操と不仲だった弟の張超にも諭され、彼らと結託して曹操に対し反乱を起こす。 目上の袁紹との間に立ち、自らの立場を悪くしてまでもとりなしていたように、曹操にとっての張?は、利害関係を超えた存在である。曹操は、その張?に本拠地を任せていた事から、変事が起こるなどとは全く警戒していなかった。 張?の裏切りは、こうした曹操の信頼に対する痛烈なしっぺ返しである。また、曹操自身、張?と袁紹の間に立たされた事で、袁紹との関係を悪化させていた。これに、呂布の抱えていた旗本、曹操の閣僚の一人でもあった陳宮の裏切り、など、張?軍の反乱には、有利になる条件が決断した時点で揃っていた。張?軍は兵の衆寡を覆し、初戦から連戦連勝。短期間で曹操の本拠地である?州の大半を占領した。急報を聞きつけ、遠征先の徐州から引き返し、逆襲を期する曹操軍を返り討ちにする事にも成功した。しかし、荀ケと程cが守る3城を落とせず、曹操の勢力に止めを刺す事は出来なかった。 翌々年の195年には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、FX から撤退。呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備を頼って落ち延びた。張?自身は、陳留に居た弟の張超らと分断されていた。張?は、陳留の一族を救出するため袁術に援軍を求めに向かう途上、部下の裏切りにあい、殺された。前後して陳留は落ち、張超など張?の遺族は、曹操の追及を逃れて雍丘に移った。 翌196年、雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超は焼身自殺し、張?の三族(父母、兄弟、実子と養子)も、曹操によって皆殺しの刑に処せられた。 後漢の霊帝の時代、武猛従事となり并州刺史丁原に属した。上軍校尉(西園八校尉を指揮する)蹇碩に招かれ仮司馬となった。蹇碩が死ぬと何進に属し、故郷に并州に戻って募兵を命じられた。千人あまりの兵を集め、上党に留まって山賊を討伐した。初平1年(190年)の董卓の乱の時には上党太守を攻め、落すことができなかったので近隣の県を侵略し、兵は数千に膨れ上がった。 張楊は袁紹、及び匈奴の於夫羅と合流したが於夫羅が叛き、於夫羅は張楊を捕らえ、同行させた。袁紹は将?義を派遣して攻撃し、於夫羅らは敗れたが、張楊を捕まえたまま度遼将軍耿祉を破って再起した。その後、時期は不明だが張楊は釈放されており、董卓から建義将軍・河内太守に任命され、河内郡野王県に駐屯した。 献帝・呂布支援と最期 興平2年(195年)12月、献帝が李?の元から関東に戻ると、日経225 の都としていた安邑で合流し、安国将軍・晋陽侯に封じられた。張楊は献帝を連れて洛陽に行くことを望んだが、楊奉、董承、韓暹ら諸将軍が従わなかったので、任地の野王に引き返した。建安1年(196年)、献帝が洛陽で困窮したときには、張楊は洛陽に至り、飢えた献帝のために米、衣服を貢餉した。その後、外敵に備えるためと言って再度野王に戻り、このとき大司馬に任命された。 呂布と同郷の誼(呂布は五原郡出身)から仲が良く、呂布が董卓を殺して長安から追われたとき、呂布を保護した。建安3年(198年)、呂布が曹操と徐州で戦っていたとき、張楊は遠路であるため、直接には呂布の援軍に赴くことができなかった。そのような中で、同年11月、家臣であった楊醜に裏切られて殺されてしまった。張楊の首級を曹操への手土産にしようとした楊醜は、同僚の?固によって殺されている。 なお、『後漢書』孝献帝紀は、建安3年11月に張楊は盗賊に殺された、同董卓伝は建安4年に楊醜に殺された、と記載しているが、本記事では、時期につき前者の説をとり、加害者は後者をとる。翌建安4年(199年)、袁紹の支援を受けようとした?固も曹操軍に滅ぼされ、残軍もそれに吸収された。 人物像 『三国志』魏書張楊伝注に引く『外為 』によれば、慈愛深く温和で、刑罰で威嚇することができない性格であり、使用人の謀反が発覚したときも、涙を流して、これを不問にしたという。その一方で、上党に進攻した時のことと思われるが、上党の名族陳氏、馮氏から婦女子と財産を略奪しようとしたこともある。これは、偶然そこに滞在していた常林の策略で阻止された。 物語中の張楊 『三国演義』では、上党太守・第15鎮の反董卓同盟諸侯として登場する。なお、史実では、張楊は上党太守に就いたことがなく、逆にこの地位に在った董卓陣営の人物を攻撃している。史実では同郷の友の呂布とも戦うが、部将の穆順を討ち取られた。その後、献帝が洛陽へ向かってからの事跡は、『演義』でも史実同様に描かれている。